菅義偉(すがよしひで)を知る

Yoshihide Suga Profile

ご挨拶

Greeting

 昨年9月の内閣発足以来、「国民の命と暮らしを守り抜く」との決意のもと、新型コロナ対策最優先で、全力で取り組んできました。

 新型コロナという見えない敵との闘いの中で、ワクチンこそが切り札と見定め、「1日100万回接種」を掲げ、政府を挙げて加速化に取り組んできました。皆様のご協力のおかげで、100万回を大きく上回るペースで順調に進んでおり、このまま進めば、我が国は世界でもトップクラスの接種率になります。

 ワクチンの効果もあり、感染者数は大幅に減少し、安心と賑わいのある日常に向けた大きな一歩を踏み出せたと思います。引き続き、新型コロナ対策最優先で取り組んでまいります。

 また、「国民にとっての当たり前」を実現したいとの思いで、様々な課題にも挑んできました。この1年間で、子どもや若者、国民の皆様が安心と希望を持てる未来のために、道筋を示すことができたと思っています。

 皆様のご協力に感謝申し上げます。ありがとうございました。

 これからも、国民の皆様との約束を果たしていく覚悟です。

経歴

Personal History

神奈川2区・当選9回
1948年12月6日秋田県生まれ。
高校卒業後上京。1973年法政大学法学部卒業。
衆議院議員秘書、横浜市議2期を経て、1996年衆議院議員選挙で初当選(以後8期連続小選挙区当選)。
2006年9月、総務大臣に就任し、「ふるさと納税」を創設。その後、自民党選挙対策総局長、自民党組織運動本部長、自民党幹事長代行等を経て、2012年12月、第2次安倍内閣の内閣官房長官に就任。他に国家安全保障強化担当大臣や沖縄基地負担軽減担当大臣、拉致問題担当大臣を務める。
2019年4月1日に新元号「令和」を発表。
2020年9月、自由民主党総裁、第99代内閣総理大臣に就任。

ギャラリー

Photo Gallery

菅義偉を語る人々

People who talk about Yoshihide Suga

原点-元小此木事務所秘書 橋本昇-

 菅は秋田県の中でもたいへん田舎の雄勝町の農家の長男でした。高校を卒業すると農業では食べていけないと、集団就職で東京に上京し、町工場の施盤工となりました。コツコツと働いて、お金を貯め、当時、私学の中では一番学費の安かった法政大学を選び入学したそうです。学費は全部アルバイトで稼ぎ、ガードマン、新聞社の使い走り、食堂のカレーの盛りつけ係など、毎日がアルバイトだったそうです。

 卒業後、就職をして、彼はある人の参議院選挙を手伝ったのですが、その時の働きぶりが素晴らしかったと、いろいろな政治家事務所から誘いが来ました、結局、私が秘書をしておりました、小此木彦三郎事務所に秘書としてくることになりました。

 菅は、政治家を目指して小此木事務所の秘書になりました。どんなに難しい陳情時でも諦めることなく一生懸命にやっていました。

 そんな菅のもとに引退する市会議員から、自分の選挙区を譲るから後継者になって欲しいとの話が来ました。その選挙区には、もう二人、若い自民党の市会議員がおりまして、二人とも「菅ちゃんだったら選挙で争っても本望だ。きっとうまくやっていけるよ。お互い横浜のために頑張ろう」と、普通なら嫌がるところを、本当に喜んで、菅の説得までしたそうです。しかし菅は、そんないい話を断ってしまいました。彼は友情のある二人とは戦えなかったのですね。

 しかし菅は、別の選挙区から立候補する決意をします。それが有力議員のいる、誰からもここから出馬して下さいと言われていない西区だったのです。あんな楽な話を断って、なんでこんなに厳しい選挙区からわざわざ出るのかと、私も反対しました。おまけに当時は、売上税の問題で自民党に逆風が吹いていました。小此木彦三郎先生も、菅のことを思って勝目はないからやめた方がいいと説得しました。しかし本人の意志は固く、昭和61年10月1日に、11年勤めた小此木事務所を辞めました。

 辞めたその日から、菅は、ひとりで西区の家を一軒一軒まわり始めました。一日300軒、4月の選挙前までに3万軒をまわり、6足の靴がダメになりました。ある日、菅が行った家は、別の候補者を支持する家だったそうですが、彼の靴を見て、なんでそんなボロボロの靴を履いているのか聞いたそうです。そして、事情を知った家の人は「これだけの苦労をしてるのだから、菅さんは、必ず当選するよ」と言われたそうです。

 お昼に蕎麦屋に入った時、菅は一度倒れました。一緒にいた人が休んだ方がいいと言ったら、菅は、平気ですと言って、また一軒一軒、家をまわったそうです。

 最初は自民党の公認も貰えず、無所属でした。やっと公認が貰えたのは選挙の直前だったと思います。選挙前に、菅の奥さんの真理子さんに会った時、立候補に反対する私が「お金も、地縁も、地盤もないゼロからの選挙を、なぜ主人にやらせるのか」と言ったら、彼女は「主人には支援して下さる方が、きっと多く出てきて頂けると信じています」と伏せ目がちに、謙虚な消え入りそうな声ながら、それでもきっぱり言ったのを覚えています。

 控えめで、いつも菅のことを影で支えていた彼女ですが、本当に彼女の言うとおり、独りだった菅のもとに、だんだん人が集まり、その輪も大きく育って行ったのです。お金も個人の献金が集まり、なんとかなってしまった。そして、誰も当選しないと思っていた選挙で、菅は当選してしまいました。

 菅の原点は、この選挙にあると思います。地盤を譲ってもらって楽な選挙をしていたら、今の菅は、ないと思います。「お金が無くとも、地盤が無くとも、強靱な意志と弛まぬ努力があれば、何事も成し得る」という彼の哲学の原点になったと思います。今の国会でも、自民党の長老や派閥や地方の有力議員を敵に回しても、都市選出自民党議員の意見を勇気を持って主張し、必ず実現させるという行動力も、あの時の経験からだと思います。

 菅は照れ屋で、自分の苦労や努力を人に見せるのを嫌うようですが、ある人が言っていました。「菅君ほど、人の気持ちと世の中の仕組みが分かる政治家はいないよ。これは、彼が人の何倍もの苦労と努力をしてきた証拠だよ」と。
 これからも変わらず、不言実行の政治を続けてほしいな。

(2001年掲載)

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宝物の背広-横浜市会議員 福田 進-

 菅ちゃんとの付き合いは、私が県議会議員の秘書、菅ちゃんが小此木彦三郎衆議院議員の秘書の時からです。菅ちゃんは秋田出身の誠意たっぷりの不器用者、私とは性格が正反対で、共通するのが、菅ちゃんは大学時代空手、私はボクシングと共に格闘技をやっていたことぐらい。でもとても馬が合い、本音で付き合い、将来は共に議員になろうという夢を持っていました。

 議員になるチャンスは、私の方に先に回ってきました。昭和58年の統一地方選挙の市会議員へのチャレンジでした。最初に菅ちゃんに相談しました。当時私は、地位も名誉もお金もなく、裸一貫での選挙をやろうとしていました。彼は「選挙資金として使ってくれ」とお金を私に差し出しました。当時の菅ちゃんは、小さな子供を抱えアパート暮らし。それは秘書の給料を自分が選挙に出る時のためにコツコツと貯めたものでした。「それは受け取れないよ」といっても彼は言うことを聞かず、「それならお借りします」と受け取りました。それはそれは大変ありがたかったものです。菅ちゃんは、陰に日向に選挙を支えてくれました。私は自民党の公認をもらえず党の推薦のみ、善戦はしましたが次点で落選となりました。親類から借金をし、菅ちゃんにお金を返しに行きました。私の窮状を知っている彼は、受け取ってくれません。「次は絶対当選するよ。一緒に頑張ろう」と。私は次の選挙を目指す決心をしました。

 その年の夏、菅ちゃんから「西口の高島屋の前で待ち合わせをしよう」と電話がありました。会うと「小此木事務所でボーナスが出たので、一緒に背広を作ろう」と言います。お金がないので「自分はいいよ」と言っても、「お金は自分が出すから、一緒に作ろうよ。その服を着てビシッと町を歩いて、応援してくれた人に会いに行けば、皆安心して嬉しがるよ」と譲ろうとしません。

 ろくな服も持っておらず、夏服も持っていなかった自分に、どうしてもその服を着せようという菅ちゃんに折れて、紺の夏物の背広を作ってもらいました。私はその服を着て、毎日、町を歩きました。今から18年前の話です。私は次の選挙で当選を果たすことができました。菅ちゃんも、その次の選挙で西区で市会議員に当選しました。

 紺の夏物の背広は、今でも宝物として大切に持っています。「初心忘れるべからず」。何か苦しいことがあった時、困難に立ち向かうときに、その背広を見ます。不器用だけれど人の気持ちが分かり、暖かみがあり、決して恩を着せず、大きい器の菅ちゃんは、市会議員としてもその能力は突出していて、国政へと飛び立ちました。

 今、菅ちゃんは衆議院議員として自民党横浜市連の会長、私は、それを支える立場となりました。「人の為に、人の為に」の菅ちゃんは、横浜の、そして、日本の宝物になると信じています。

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まちづくりを菅さんと -株式会社トーイズ 北原 照久-

 菅さんは、昭和23年生まれの同じ年で、とても親しみがあります。この年の生まれは、戦後のベビーブームで団塊の世代。とても人数が多く、物がない時代、平和な時代、高度成長も経験して、今一番の働き盛りを迎えていますよね。今、日本が直面している困難の中で、我々が世の中を変えていかなければならないという気概を一番持っている世代だと思いますよ。

 そこで、世の中を変えるために何が必要か。それは、行動力ですね。私がテレビの「なんでも鑑定団」に出演していて感じたことですけど、たくさんのコレクターの人が出てきますが、やはり行動力とマメさがなければダメですものね。もちろん、おもちゃのコレクションもそうです。

 菅さん、ありますね、行動力とマメさ。前に私が、菅さんに、横浜のまちづくりに関することで、相談したところ、忘れないでちゃんと約束を守ってくれる。すぐに行動してくれるのですよね。口で言うのは簡単じゃないですか。行動に移すか移さないかは、大きな問題ですよ。我々の世代で、行動力とマメさを兼ね備えた菅さんみたいな人が政治家をやって世の中を変えてくれるわけです。

 菅さんの女性の後援会に講演をしにいったこともあるんですけど、会場に女性ばっかり千数百人、ビックリしましたねえ。たくさんの講演をしてるけど、あんなにたくさんの女性ははじめて。

 菅さんは、女性に優しいんだよねえ。じゃなきゃ、あんなに女性ばっかり集まらないよ。講演にも力が入りましたよ。菅さんの持っている魅力と力を感じました。

 この間も、菅さんと食事をしながら、横浜の事をいろいろ話したんですけど、あの人とは気が合うな、話しやすいと感じますね。政治家の先生と言うと距離があるなと感じるんだけど、それが全然ないよね。

 私は37歳の時、東京から横浜に来て16年になります。菅さんも秋田から横浜に来て30年ぐらい経つのかな。外から横浜に来た人は、客観的に横浜が見れて、横浜にずっと住んでいる人が忘れている横浜の魅力が分かりますよね。「横浜ウォーカー」という雑誌に連載していて感じたことなんですけど、横浜には魅力的な人が多いようです。

 菅さんとも皆で力を合わせて、さらに横浜を魅力ある町にしたいですよね。

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親孝行-宗教法人 円満寺 西郊 由美子-

 菅さんと初めてお会いしましたのは、私ではなく、お寺の住職であります私の主人の西郊良光でした。その日、お寺で一人でおりました住職は、菅さんの訪問を受けました。当時、菅さんは西区から市会議員で立候補しようという時で、ひとりで一軒一軒おうちを訪ねて歩いていたんですよね。10分くらいお話ししたそうですが、住職は初めて会った菅さんの話を聞いて、人柄に触れ、人並みはずれた真面目さ、納得させる物の捉え方に衝撃を感じて惚れ込んでしまったそうです。

 それから、お寺の食事会に住職が菅さんを招待したときに、私はお会いしたのですが、人の話を一生懸命聞いていて、お酒も飲めないのに大勢の人の所をまわって、こんなに真面目な人がいるのかしらと思いました。それから、私は菅さんの後援会の婦人部長をやらせて頂き、市会議員、国会議員の選挙と当選して、本当に嬉しかったです。

 後援会の婦人部長をやらせて頂いたこともあって、菅さんのご両親ともお付き合いをさせて頂きました。一度、菅さんのご両親がいらっしゃる秋田のご実家にもお邪魔させて頂きました。ご実家は、秋田の山をいくつもいくつも越えて、秋田杉の間をどこまでもどこまでも行った本当におおらかな田舎という所です。

 やっとでてきた集落は、姓が菅さんの名前だらけで、菅さん一族、ご親戚だらけでした。ご実家は、全く普通のおうちで平屋です。おうちに入りますと、選挙の時に作った菅さんの顔のパネルが貼ってありました。お父さんは楽しい人、お母さんも楽しくて優しい人です。

 実は、その時に、今度ある菅さんの後援会の旅行に、内緒でご両親に来ていただいて、菅さんを驚かせましょうとお誘いしたのです。お母さんは乗り気で、お父さんは、はにかんでいらっしゃいましたが、来て頂くことになりました。宴会の最中に、ご両親を登場させると、菅さんは照れながらも本当に嬉しそうでした。その時、お母さんは息子がお世話になっておりますと、皆さんの前で「岸壁の母」を踊ってくれたんですね。お母さんの菅さんを思う気持ちに皆思わず涙してしまいました。ご両親は、菅さんが農家を継がないで、集団就職で出ていってしまってからも、ずっと暖かく菅さんのことをおおらかに見守ってあげていたんですよね。

 菅さんも本当にご両親思いで、忙しい時間をやり繰りして、ご両親を旅行に連れていってあげているのです。私もご一緒したのですが、ご両親に札幌の雪祭りを見せたいと言って急に行くことになったりして。その時の菅さんはお父さんとお母さんの前で本当に子供になってあげて、ご両親を喜ばしてあげているのですよね。奥さんのまり子さんも毎年お子さんを連れて秋田に行って親孝行しているそうです。

 そして菅さんは、何かあった時は、必ずご両親に連絡しているんです。まめに電話して、ご両親とお話しているんですよ。私もそのようなこと忘れていて、それからなにかあったら親に電話するようになりました。

 菅さんの、あのご両親に対する親孝行の気持ち、優しさが、政治家・菅義偉の根本にあることを大変嬉しく思いますね。

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福祉のプロ-社会福祉法人横浜福祉協会 理事長 小林 建次郎-

 菅さんは、福祉に関して本当によく勉強していらっしゃいますよ。国の出している「ゴールドプラン」やら「新ゴールドプラン」やら、横浜市の福祉政策の現状から将来像まで熟知していて、実に分かりやすく説明される。福祉のプロの私が教えて頂いて感心するんですから、菅さんこそ本当の福祉のプロですね。

 よく選挙になると、いろいろな政治家が「福祉、福祉」と言いますが、私はあの人達が具体的に何をやっているのかと聞きたいですよ。私はこれまで自民党やらなにやらと関係ありませんでしたが、菅さんと出会ってビックリしました。様々な施設の悩みや問題にきちっと対応してくれるのは、菅さんだけですよ。でも、エゴが感じられるような自分本位な相談事はダメ、あの方はそういうことは受け付けません。あくまで利用者の方々のためになることだったら本当に一生懸命やって頂けるんです。それに、あの方は自分がやったことを自慢しない。こんな人が世の中にいるんだなぁと思いましたよ。

 菅さんの凄いところは福祉についての「あるべき姿」、言い換えれば哲学をお持ちだということです。それは、常に社会的な介護を必要となさる利用者の為になるかどうかを判断の基準にされる。西区というご高齢の方の多い所で市会議員をなさっていたりして、介護を必要とする方々との交流を通じて培われた哲学であり、感覚とお察しします。

 平成12年より介護保険制度も導入されました。菅さんも利用者本位のサービス向上を目指すため、シルバー産業を含めた市場原理の導入を福祉に入れることを推進されています。我々の施設に対しても利用者本位のサービスが向上するよう様々な指導を頂き、そのために必要な規制緩和にもご尽力を頂いております。また、施設にもちょくちょく訪問して頂いているんですよ。たまたま来ていた市の職員の方がビックリしていましたよ。

 また、横浜市では南区、西区、中区といった高齢化率の高い地域の施設整備が、用地難のために周辺地区より遅れていました。それが昨今、南区に南太田ホーム、中区には本牧ホームが、いずれも市有地対応で実現しましたが、これも菅さんをはじめとする自民党の皆さんのおかげと感謝しています。

 最後に言わせていただきますが、菅さんは利権やらなんやらと、一切関係のない人で、ほれぼれしますね。人々が望む物が実現して利用者が喜んでくれればそれでいい人なんです。だから私は、この人は本当の政治家だと思うんですよ。

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菅義偉物語

Yoshihide Suga Story

すがちゃんは、秋田杉に囲まれた自然たっぷりの秋田県雄勝(おがち)町で生まれた。

農家の長男として、家の手伝いをしながら高校を卒業。

「東京で自分の力を試してみたい」と思い立ち、家出同然で上京する。

段ボール工場に就職するも、「視野を広げるため、大学で学びたい」という思いを強く抱く。

入学金を貯めるため、築地市場の台車運びなどのアルバイトもしながら、アパートに帰れば試験勉強という生活を2年間続ける。

当時、私立でもっとも学費が安かった法政大学に入学。

入学後もアルバイトを続け、これまたさまざまな職場で働き、学費を稼ぎながら大学を卒業。

民間企業に就職、サラリーマン生活のなかで、「世の中を動かしているのは政治だ、人生をかけてみたい」と政治の道へ。

しかし、まったくツテがなく、大学の学生課へ飛び込み、法政大卒OBの国会議員事務所に紹介を受け、小此木彦三郎元通産大臣の秘書として11年間勤める。

その後、まだ子どもが6歳、3歳、6ヶ月と幼かったにも関わらず、横浜市西区から市会議員に立候補を決意!!

しかし、現職は自民党の有力議員。そして周囲からの猛反対。まさに「地盤」「看板」「カバン」なしからのスタート。

一に行動、二に行動、1日300軒歩き続け、奇跡の初当選!このときの経験から「意志あれば道あり」が座右の銘となる。

横浜市会議員として2期、自民党の若きエースとして活躍。

そこで、国に財源や権限を握られ、国が中心となった中央集権体制に強く疑問をもつ。

地方分権国家の実現を目指し、国政へ挑戦するため、市会議員を辞職し、浪人生活を経て、見事初挑戦、初当選。

1期目、若手の改革派のリーダーとして「長老支配の打破」を旗印に、派閥中心、官僚主導の自民党の古い体質に真正面から噛み付く。

自民党総裁選挙では1期生ながら梶山静六氏を担ぎ出し、金融不安解決と自民党改革を叫んだ。

国土交通大臣政務官に就任し、行政の壁を突破し、ETCの夜間割引、アクアラインの大幅値下げ、港におけるワンストップサービス化などの実現に取り組む。

経済産業大臣政務官に就任し、対北朝鮮経済制裁シュミレーションチームの座長として、万景峰号の入港を禁止させるとともに、上層部にしか届かない高級品や送金の禁止を実現。

また、振り込め詐欺撲滅ワーキングチームの座長として、プリペイド携帯の販売禁止法案の成立に尽力。また、党国会対策副委員長に就任すると、困難な国会運営のまとめ役としての働きをみせる。

4期目、総務副大臣を務め、安倍内閣で総務大臣に就任。
○ふるさと納税
○NHK改革
○夕張問題
○「あるある大辞典」納豆ねつぞう問題
○日本主導の北朝鮮への短波ラジオ放送の実現
○携帯電話の番号持ち越し制度や国際競争力の強化aaa
○地方分権改革法案の成立
○郵政民営化の実施など

わずか1年の間に19もの法律をつくる、実力派の大臣として大活躍!

麻生内閣で選挙実務責任者である選挙対策副委員長を務め、さらに原点である地方分権改革を進めるため「せんたく」議連の世話人に就任。

「地方の活力なくして国の活力なし」をモットーに改革の先頭へ立つ!

また、地震対策やマンション問題、公団住宅問題にも積極的に取り組み、つねに官僚主導の政治からの決別を訴え続け、党を超えた幅広い行動力を発揮。

厳しい状況の中の2009年の衆議院選挙、5回連続小選挙区当選を果たす。

野党となった自民党を改革すべく世代交代、組織改革を訴え続ける。1人でも多くの方の声を聞くためにひたすら街に出る日々。

新しい自民党を作るため、2012年総裁選で安倍総裁誕生に奔走。安倍総裁のもと幹事長代行として迎えた衆議院選挙にて6期目当選、自民党が政権奪還を果たす。

第2次安倍内閣にて内閣官房長官に就任。

安倍内閣は日本経済再生を最優先に、様々な課題に政治主導で取り組み、一つひとつ着実に結果を出すことにこだわる。

すがちゃんも政権の要として記者会見や数々の政策の調整役として奔走。2016年7月8日官房長官在任期間歴代1位となる。2017年衆議院選挙で8期目当選。

2019年5月1日、日本の歴史的節目である皇位継承が行われ、それに先立って4月1日すがちゃんが新元号「令和」を発表。

令和に込められた思いは、一人ひとり誰もが大きな花を咲かせることができる社会の実現を目指すこと。

2020年9月、すがちゃんは第26代自民党総裁、第99代内閣総理大臣に就任。新型コロナ対策をはじめ、携帯電話料金の値下げ、不妊治療の保険適用、デジタル庁設置、2050年脱炭素社会の実現など、数々の改革に取り組む。

2021年、総裁任期を満了し、衆議院選挙で9期目当選。すがちゃんは初心を忘れず、「意志あれば道あり」を胸に、今日も走り続ける・・・